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鎧兜

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■鎧兜■

鎧兜 鎧・兜は武士の象徴として古くから大切にされていました。
鎧・兜は戦の時に敵から身を守る大事な役目を持っているため、病気や災厄からも身を守ると言う意味合いから、5月5日の「端午の節句」に鎧・兜が飾られるようになりました。

 「端午の節句」は中国から伝わってきたものです。端午の「端」は“はじめ”を「午」は“午(うま)の日”と“五”をあらわしています。
中国では昔、この「五月のはじめの午の日」に薬草をつんで健康に暮らせるようにと願うお祭りがありました。
そして五5月5日のように奇数が重なる日は、おめでたい日とされるようになりました。
平安時代頃、この二つの風習が一つになって日本へ伝わりました。
宮中では、菖蒲やよもぎを使って災いをはらう行事を行うようになりました。
「端午の節句」のことを「菖蒲の節句」とも呼ぶようになったのも、この頃からです。

 さらに鎌倉時代には、この菖蒲が武芸をうやまう“尚武”や“勝負”に通じるものとして、武士の間でも、「端午の節句」をお祝いするようになりました。
また悪鬼や災厄を祓うのが目的で、武家屋敷の塀や門に柵を作り、幟(のぼり)や兜・槍・なぎなた等を家の外に飾りました。
やがて鎧兜を着せた武者人形を飾るようになったそうです。
庶民は本物の武具などは持っていないので、厚紙などで兜や剛毅な武者の人形を造り飾っていました。
そして、子供達が菖蒲でつくって遊んでいた兜や刀は、やがて元気な男の子のシンボルとなり、江戸時代には「強くたくましく育て」と男の子の出産を祝って5月5日に飾られるようになりました。
やがて文化の円熟した元禄時代になると、外飾りではなく小型ののぼりを室内に飾るようになりました。
同時に弁慶や義経等の史実に残る勇猛な人物の武者人形や、疫病から人々を守る鍾馗様が作られ飾られるようになります。
この頃から武家と庶民の飾りに差異がなくなり、室内に飾る内飾りが主流になり、端午の節句のお祝いが普及していきました。
鎧兜が現在の様な形で、主に飾られるようになったのは、戦後と言われています。 鎧兜は戦いの道具ではなく、身体を護るものという意味でとらえるようになります。
災厄払いの行事と、「事故や病気から赤ちゃんや子供を護ってくれるように」と願う親の気持ちがひとつになって現在の「こどもの日」が生まれたのです。


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